(こちらの絵は私が勝手につけさせていただいたものです。糸井さんすみません<(_ _)>)
以下、昨日(5月14日)の「ほぼ日」の『今日のダーリン』よりコピペ
—————————————————————————–
「断られる」ということについて、考えていました。
仮に、小笠原くんが、なにかを提案したとします。
もう一方の東野くんが、それを「断る」としましょう。
小笠原くんは、その「断られた」理由を説明してくれと、
東野くんに強く言う、とします。
このとき、東野くんは、小笠原くんに対して、
「断った」理由を説明する義務はないのです。
ぼくは、そう決めました。
よくわかんないけど「断った」とか、
うまく言えないけど「断りたかった」とか、
「断った」理由をあなたに言いたくないとか、
ぜんぶ、オッケーなのです。
それは、つまり、理由はわからないけれど、
小笠原くんの提案には、東野くんが賛成するだけの、
「なにか」がなかったのです。
・「ほぼ日」がなにか依頼するときには、
とにかく「断られてもいい」と決めてお願いします。
「断る」か「断らない」かの自由は、
頼まれた人がまるまる持っているという前提で、
「どうしましょう」という話にします。
「断る」理由を教えてくれる人がいた場合は、
ありがたくそれを聞きますが、
そうでなければ、「またの機会を」とあきらめます。
ほんとうに「またの機会」がくることも多々あります。
「断られる」ことを考えに入れたプロポーズとは、
相手の自由を大事にすることだと思っています。
「相手を自由にさせすぎていたら、成立しない」
なんていう場合は、成立しないほうがいいくらいです。
ぼくは、そういうふうに思ってやってきました。
だから逆に、わりと「断る」ことも自由にしています。
手は、両側から伸ばしあってつなぐものですからね。
親が子どもの手をしっかり握っているのと、
おとなどうしが、手をつなぎあうのとでは、
ぜんぜんちがうわけなんですよねー。
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
———————————————————————————-
糸井さん、断るということを通しての「自由」の考え方を
ありがとうございます。
「断る勇気」と「断られる強さ」を身につけたい、と思いました。